●図書室のネヴァジスタ/May 5th is●

May 5th is

モドル

  May 5th is  






「わあ……」

槙原が抱く赤ん坊に、学生たちは歓声を上げた。

彼らは一様に緊張していた。手を伸ばすこともなく、気を付けの姿勢で覗きこんでいる。

「ちっちゃい……」

「赤ちゃんだ……」

「女の子? 男の子?」

「女の子だって。かわいいでしょう」

槙原の抱き方はぎこちなく、眠っていた赤ん坊は目を覚ました。

携帯のカメラを構えながら、和泉咲が声を弾ませる。

「起きた。かわいい」

「指動いてるよ……。こんな小せえのに……」

辻村煉慈が恐々と小さな手に触れる。目を見合わせて、白峰春人も興奮まじりに言った。

「ね! こんなちっちゃいのに爪ついてる。かわいいなあ……」

「良かったね」

茅晃弘は遠巻きに微笑んでいた。関心がなさそうだ。

「抱っこしてみる?」

「いい、いい。おっことしたら怖い」

「瞠は子供の面倒見慣れてるでしょ?」

「こんなちっちゃいのは触ったことないよ」

正直に遠慮する瞠くんに、笑い声が弾けた。複数の声に驚いて、赤ん坊がむずがり始める。

「あ、泣いちゃった……。どうしよう。みんな、あやして」

「無茶ぶりを……」

「ベロベロバーだよ、煉慈」

「さっちゃんがやれよ。ちょっと見たいわ」

「泣かないで、泣かないで。女の子に泣かれると胸が痛むよ」

「おまえは乳児まで圏内なのか」

「立て抱きの方がしっくり来るんじゃない?」

赤ん坊がかわいそうになって俺は口を出した。彼らが振り返る。

「立て抱き?」

「そう、こうやって」

俺は赤ん坊を縦に抱くジェスチャーをした。全身で緊張しながら、槙原が向きを変える。

「……こう? ひい、怖い……」

「首、首。首押さえた方がいいんじゃないの?」

「首は座ってるって言ってたけど……」

「大丈夫だよ、赤ん坊って丈夫だから。不安定にしてると怖がって暴れるから、さっと抱きかかえればいい。ほら、背中に手を当てて。体揺らして」

俺の補助を受けながら、槙原は抱き方を変えた。しばらくして赤ん坊が泣きやむ。覗きこむ白峰春人に向かって、笑顔まで見せた。

「笑った。かわいいなあ」

「聖母様がわかるんだよ」

「関係ないじゃん」

「僕も白峰君が劇でこうやって横に抱いてたから、赤ちゃんって横に抱くもんかと思って……」

「俺のパクリだったんだね」

「パクらせて頂きました。でも失敗だったよ」

「また笑った。ブレた」

「気持ち、マッキーに似てる気がすんな」

「どこが?」

「口の一番端のあたりとか……」

「ホントに気持ちだね」

「これでおまえも叔父さんだな。よう、おじさん」

「マッキー叔父さん」

「渉叔父さん」

「……誕生日だって言うのに、この仕打ち……」

「誕生日なの?」

俺は驚きの声を上げた。いつの間にか自然に、俺は彼らの輪に混ざっていた。

辻村煉慈が得意げに笑う。

「そうだよ。だから、驚かせてやろうと思ったんだ」

「プレゼント見たい? 先生」

「えー! プレゼントまで用意してくれたの? 待ってて、赤ちゃん置いてくる」

「その前に写真撮ろうよ。赤ちゃんも一緒に」

こちらも得意げに白峰春人がデジタルカメラを出した。当たり前のように、瞠くんが俺の腕を引きよせる。

「詰めて詰めて。ハルたん、後でハルたんも取ってやんよ」

「ふふふ。瞠に使いこなせるかな」

「良く言うぜ。そのうち押し入れにしまったベースと一緒になるんだろ」

「辻村だってタコ焼き器出さないじゃん」

「え? うち、タコ焼き器あるの?」

「流しそうめん機もあるよ」

「行くよー。笑って」

光の庭にシャッター音が響いた。





















槙原は生徒と友人からプレゼントを受け取った。

一つ一つに感激して彼は笑っていた。社交的な微笑ではなかった。肩を揺らして、お腹を抱えて。

笑い声が青空に吸い込まれる。穏やかな幸福が小犬のように芝の上を転げまわった。

光る庭の外側ではなく、内側に俺もいる。

「ウコンの漢方薬! 南、ありがとうー」

「休肝日を作るように」

「せっかく来てくれるなら、僕が一番欲しいプレゼントも、連れて来てくれれば良かったのに……」

「ゆっこちゃんには自分で連絡しろよ。津久居賢太郎と合コンしたって言ってたぞ」

「は!?」

「馬鹿、声が大きい」

彼の友人の南も笑っていた。あきらめたと言いながら、彼の槙原を見る眼差しは優しかった。

愛される人間はいるのだ。

誰もが笑っていた。槙原からワインを取り上げる辻村煉慈も。彼らを眺める茅晃弘も。ワインを盗み飲む白峰春人も。チーズを頬張る和泉咲も。

俺がした復讐なんて、意味がなかったように思える。笑い声や幸福は、軽やかに力強く、悲劇を覆してしまう。

瞠くんも笑っていた。先程俺に近づいて、瞠くんが囁いた。ごめんな、誠二。

「マッキーから聞いたよ。あんたに相談に乗って貰ってるうちに、泣いちゃったんだって。嫌なことされたわけじゃないって」

ぎこちなく、瞠くんは笑った。この子が笑った顔を見るのは、どのくらいぶりだろう。

照れたように肘で突ついて、くすぐったそうに瞠くんは言った。

「いいとこあるじゃん」

俺は苦笑した。胸が一杯で言葉にならなかった。

失ったものたちが、ゆっくりと、この手に還ってくる。

瞠くんに優しくしたかった。どうすればいいかわからずに、大きくなったあの子の背を撫でた。はにかみながら、あの子も笑っていた。

みんなの所に行っておいで。――優しく言えて良かった。駆け出すあの子の背中を、笑って見守れて良かった。

俺は幸福だった。

もっと早く、気づくことが出来たなら。

槙原から取り上げたワイングラスが、俺の元に回ってくる。飲んじゃえよ、こいつ飲み過ぎだから。俺の弟が笑った。飲酒運転になるよと俺は苦笑する。

いいよ――恋した人の子供が、あの人と同じように無邪気に笑う。バレないって。

白峰の子供と茅の子供が、目を見合わせて笑い合った。俺はおとなしく、グラスを持ち主に帰す。

俺に奇跡をもたらしたのは、彼だと知っていた。

「飲み過ぎだよ。最後の一杯にしなさい」

最後の一杯。

眉を寄せて、槙原がグラスを口に運ぶ。

「せっかく誕生日なのに……」

「肝臓壊すよ。代わりにプレゼントをあげる。何がいい?」

「アドバイス」

少し考えて、俺は言った。

「自分のやり方を変えることはないさ」

槙原は大笑いした。昨夜さんざん聞いたスティングの曲の、歌詞の一説そのままだったからだ。

「何? 何で笑ってんの?」

興味津々で瞠くんが身を乗り出す。俺たちはすまして笑った。

「秘密」

「平成生まれには教えない」

声を揃える俺たちに、瞠くんは目を丸くした。子供っぽく口を尖らせて、友達の手を引いていく。

「なんだよ、いきなり仲良くなっちゃって。昭和生まれはおいて、海見に行こうぜ」

くすくす声をひそめて、俺と槙原は笑った。

「かわいい。やきもちかな」

「どっちに妬いていいか、わかんないんだよ」

俺たちは海に移動した。槙原の店から歩いて数分の所に、海岸はあった。

初夏の海は優しく、気持ちのいい波音が響く。

スピーカーはもうないのに、イングリッシュマン・イン・ニューヨークが鼓膜で繰り返している。エイリアン。合法的なエイリアン。

「神波さん、昨日話したこと覚えてます?」

「どの話?」

「窓から見える光。どこにあるんだろう」

「別に気にしなくていいよ」

煙草をくわえて、俺は微笑した。

古川の携帯の録音は消した。牧師舎に戻ったら、あの端末はすぐに処分しよう。

「何の光かわからなくても、問題なかったでしょ」

「そっかな……」

水平線の向こうを、槙原は未練がましく見つめている。彼の気を惹くために、俺は子供たちを指さした。

「見て。瞠くん、波に入っちゃったよ」

「あはは、白峰くんもだ。若いなあ」

靴を脱ぎ捨てる子供たちを眺めて、槙原は笑い声を上げた。視線はもう、海の向こうには戻らないだろう。

潮風に目を細めて、俺は薄く笑う。

――決して知られてはいけない。

大丈夫だ。古川鉄平を破滅させた俺の虚言を、知っているのは御影清史郎だけ。

御影清史郎は今いない。帰ってくるようなことがあれば、秘密を漏らす前に消してしまえばいい。もしくは、先に彼を見つけて始末しよう。

子供たちを眺めながら、槙原と並んで歩く。瞠くんが大きく手を振る。――大丈夫だ。俺は手を振り返した。

瞠くんとも槙原ともうまくやれる。ようやく訪れた平穏を、誰にも邪魔させやしない。

目障りな腕時計ももうない。古川の教師ではなく、彼は俺の友人になる。少しずつ古川のことは忘れていくだろう。俺が忘れさせていく。

穏やかに息を吐いて、俺は瞼を閉じた。大丈夫だ。槙原の好きなスティングも歌ってるじゃないか。自分のやり方を変えることはないさ……。









May 5th is  了

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