May 5th is
May 5th is
パシャという機械音がした。
重たい瞼を開けると、和泉咲が俺を覗いていた。瞬きをすると、もう一度パシャっと音がした。
「………?」
事態が把握できないまま、夢かと思って目を閉じる。ぱたぱたと足音は遠ざかっていった。
それから、また俺はしばらく眠った。改めて目を覚ました時には昼を過ぎていた。アルコールがまだ残っている感じがする。
部屋に槙原はいなかった。店だろうか。着替えて階段を下りる途中、洗濯物を抱えた槙原の母に会った。
最高に気まずい。
「あらあら、牧師さん。具合はどう? ごめんなさいね、渉が飲ませすぎちゃったみたいで」
「いや……。どうもお恥ずかしいところを……」
「あの子はいつもそうなのよ。調子に乗ってお友達に飲ませすぎるの。若い頃からそうなの。牧師さんは若いお友達じゃないから、大丈夫かなと思ったんだけど……」
「どうもお恥ずかしいところを…………」
穴があったら入りたい。彼女は優しく微笑んでいた。笑う目元は彼によく似ていた。
「今、お店の方にいますから。生徒さんたちも来てらっしゃいますよ。よく食べる子たちで嬉しいわ」
「……生徒さん、たち……?」
「――あ、酔っぱらいだ」
「――二日酔いの人だ」
「――槙原先生に潰されたんだって?」
日当たりのいいテラス席には、幽霊棟の学生たちがいた。視線を浴びて目眩を感じる。部屋に戻って寝直したい。
「誠二」
席を立って瞠くんが近づいてきた。ちらちらと顔色を伺うくせに、居直った口調で言う。
「昨日はごめんな。みんな来たいって言ったからさ、抜け駆けっぽくって悪いなと思って」
「へえ」
ドタキャンして悪いなとは、これっぽっちも思わないわけだ。
「二日酔いだって? 大丈夫?」
「たった今ひどくなったよ」
「マッキーと二人で大丈夫だった? 何もしなかっただろうな」
「二人にしたのは君だ。今さら後悔しても知らないよ」
「……何したんだよ」
「泣かした」
瞠くんは、どんと俺の胸を突き飛ばした。泣き出しそうな顔をしながら、眉をつり上げる。この子の怒った顔だ。
「なんで、あんたはそうなんだよ!」
ケホッと噎せ返りながら、去っていく背中を見つめた。瞠くんは振り返らずに、友達の輪の中に入っていく。これで俺の居場所はなくなった。
所在なげに立ち尽くしていると、同じように所在ない様子の男と目があった。硬派で誠実で寡黙そうな――つまり、俺と真逆のタイプの人間だ。
男が目をそらさないので、俺は会釈した。男は真っ直ぐに俺に歩み寄って、親善試合を始めるかのような深い礼をした。
「初めまして。槙原の友人の南です」
一拍の間を空けて、俺も頭を下げた。
「神波です。……ご友人たちもお集まりなんですか?」
「いえ、俺だけです。先生に道案内を頼まれて、迎えに行ったんです」
先生? 槙原のことだろうか。
「槙原に潰されたそうで」
「お恥ずかしい話ですが……」
「俺よりもマシです。吐きながら眠ってしまって、6時間トイレを独占して家族に顰蹙を買った」
生真面目に南が言うので、冗談かどうかわからなかった。笑うタイミングを逃して、俺は煙草をくわえる。
「ライターをお持ちですか」
「店のマッチで良ければ」
南はどこかのテーブルから、マッチと灰皿を持ってきた。一発で火をつけて、俺の前にかざす。
「あいつは甘ったれだから、色々迷惑をかけているでしょう」
「そんなことは……。まあ、そうですね」
否定してやることもなかったので頷いた。迷惑なのはたしかだ。
「やっぱりですか」
「勝手に心酔されて、勝手に幻滅されたり……。おおむね、そんな感じです」
「貴方はあいつが好きそうなタイプだから」
煙草を吸うと気分が悪くなった。まだ胃が弱っているらしい。
「仲良くしてやってください。ほどほどに。入れ込むとがっかりしますから」
「どうして?」
「あいつは誰にも入れ込まないから」
「やっぱりエイリアンだな」
「トラブルメーカーですよ。何度修羅場を経験しても学習しない」
「君もがっかりした口なわけ?」
「まあ」
口数少なく南は頷いた。美味くもない煙を吐きながら、俺は目を細める。
「古川には入れ込んでるように見えるけど」
「死んだからですよ。死人にかなうものはない」
痛恨の一撃だった。
俺の人生がそうだ。彼女が存命だったら「うるせえ、くそばばあ」くらい言えたかもしれない。今だって思う傍から罪悪感がする。
「……だけど、時計は外したんだな。いいことだ」
南の声に俺は内心でにやついた。胸を張るような気分で、煙草を深く吸い込む。
光り輝く陽射しの下、子供たちは幸福そうだった。
テーブル一杯に並んだ料理を、笑いながら取り分けている。初夏の風が過ぎゆくテラスに、悲劇の影はどこにも見えない。
どうして、あんな風に笑えるんだろう。
身内に裏切られ、悪意にさらされて――死ぬより辛い経験をしてきたはずなのに。
「誠二」
和泉咲が皿を片手に駆け寄ってきた。三種類のピザが盛りつけられている。
「誠二の分」
「いらない」
俺は断った。ピザは二日酔いの時に見たくない食べ物ナンバーワンだ。
和泉咲が眉を上げる。
「あっちに座ればいいのに」
「いいよ」
「瞠を怒らせたから?」
うんざりと目を細めて、俺はもう答えなかった。俺の態度を勘違いして、和泉咲は口端で笑う。
「お味噌にしたりしないよ」
俺の手に皿を押し付けて、和泉咲は去って行った。俺は自分に失望した。俺があと少し良識のない男だったら、あの背中に皿を投げつけてやれたのに。
惚れた女の子供というのはやりにくいものだ。
テーブルに戻った和泉咲が、わいわいと皆に話した。子供たちがちらちらと俺を振り返る。こういう空気が一番腹立たしい。竜巻が来てあのテーブルを攫って行けばいいのに。踵を鳴らして帰って来なくていいから。
友人たちにせっつかれたあげく、辻村煉慈が席を立った。あいつは馬鹿なのか。
こちらに来る気配を察して、煙草を消して立ち去る。もうやってられない。一人で車を出して帰ろう。アルコール検査に引っ掛かったって、そっと息を吐いて上手くやってやる。その自信はある。
駐車場に向かう俺の背中に、走り寄る足音がした。誰であろうと、振り向きざまに蹴り付けてやりたかった。腕を掴まれて、睨みながら振り返る。
同じように、睨む目線の瞠くんがいた。
「帰んの」
「帰るよ。いても仕方ないでしょ」
「……そう」
「嫌がらせ出来て楽しかった?」
瞠くんは勢い良く顔を上げた。十分に傷ついた顔を確認して、俺は不愉快な気分を洗浄する。
「そんなつもりじゃねえよ。マッキーが……」
「何?」
「あんたにわがまま言ってみればって……。きっと、聞いてくれるからって……」
あ、泣きそうだ。
この子はずるい。すぐに泣く。ずるいずるいと俺が言ったから、泣く時の瞠くんはいつも申し訳なさそうだ。
槙原は気持ち良さそうに泣いた。気分が良いわけはないだろうけど、息継ぎをするみたいな、すみやかな泣き方だった。
「君が重荷だからだよ」
瞠くんの指がぴくりと震えた。嗜虐的な愉悦を味わって俺は笑う。
「君みたいな気持ち悪い子、懐かれても困るって。俺の方で何とかしてって言ってた。槙原先生も迷惑なんだよ」
「そ……」
「嘘じゃないさ。先生を慕ってるからいいじゃないって言ったけど、しつこく食い下がってた。わかるだろう? 君を引きとりたくない里親たちの、いつものあの感じだよ」
下を向く頬が青ざめる。言い過ぎだ。そう自覚しても止められなかった。
俺の元を離れたこの子なら、不幸な方がいいから。
「せいぜい楽しんでよ。楽しいのは君だけで、友達も先生も苦痛の時間を過ごすことになるだろうけど。君は図々しく無視でき……」
鈍いもので頭を殴られた。
大きなチーズの塊だった。眉を吊りあげて、槙原が俺を睨んでる。
「なんてことを言うんだよ」
「君、食べ物で……」
「大丈夫? 久保谷君」
俺の反論を無視して、槙原は瞠くんの肩を掴んだ。瞠くんは委縮しきって、唇を開いても無言でいる。
槙原は真摯に微笑みかけた。
「この人のいうことは嘘だよ。昨日ね、お母さんにされたことを、そのまま君にするつもりなのかって言ったら……」
「ちょっと」
血相を変えて、俺は槙原を掴んだ。人のトラウマを往来で話すなんて気が狂ってるんじゃないか。
「うっさい、黙って。――そう言ったら、神波さん泣いちゃってね」
「泣いてないよ! それは君でしょう!」
「めそめそしながら、吐くまで飲んだわけ。その時に言ってたよ。お母さんにして欲しかったことを、君にしてあげたいって」
弾かれたように、瞠くんが俺を見た。
大きな瞳を見開いて、ほのかに頬を紅潮させている。驚きと喜びが混じった、照れ臭そうな眼差しに、俺は絶句した。
どうやって責任取るつもりだ、槙原。
「だけど、神波さんはわかんないんだよ。家族に優しくされたことがないから、やり方を知らないんだ。友達もいないし、彼女もいないし、ペットもいないし……」
「ちょっと、関係ないでしょう」
腕を掴んだ俺の手を、槙原はばしっと振り払った。
「大目に見てあげて。自転車をうまくこげない子が、三輪車に乗ってる子供に意地悪してるのと一緒だから」
「何言ってんの!?」
声を荒げる俺を無視して、瞠くんは槙原を見つめていた。
澄み渡った、真っ直ぐな視線だった。
子供の頃には俺に向けられた、あどけない期待と信頼の眼差しだ。
「……ペダルの踏み方を、マッキーが教えてあげてくれるの?」
「あのさあ、教えてあげるって何。自転車くらい乗れるよ。数年乗ってないけどたぶん」
「僕も練習中だよ」
俺を無視して、槙原が微笑んだ。初夏の日差しに、優しく彼の髪が透ける。
瞠くんの頭を撫でて、槙原は背中をぽんと叩いた。
「みんなの所に行っておいで。これを持っていって」
「チーズ? わかった」
チーズを抱えた瞠くんが、笑って駆けだしていく。振り返る視線を、俺は気づかない振りした。文句を言おうと、槙原を睨みおろす。
「あることないこと言わないでよ。君は何考えて……」
「久保谷君は貴方のサンドバッグじゃないんだ!」
唐突に、槙原は怒鳴った。
「気に食わないことがあるなら自分で解消しなよ。いつもあんなこと言ってたの?」
一瞬、何を言われたかわからず、理解した途端、猛然と憎悪がこみ上げた。殺意よりも黒い感情で口を開きかけた時、槙原が俺に手を伸ばす。
時計のない手首が、優しく俺の腕を撫でた。
「ごめんなさい。いきなり、みんながいたから驚いたでしょう。後で起こしに行こうと思ってたんですけど」
タイミングを失って口を噤む。俺を見上げて、槙原は微笑んだ。
「久保谷君、喜んでたね。良かったですね」
「……君がでたらめを言ったからだ」
「でたらめじゃないよ。でたらめだったら、あの子が気づく。貴方の本音を、代弁してあげただけだ」
立ち尽くす俺の背を槙原が叩いた。瞠くんと同じように。
「行きましょう。何で駐車場にいたんです? ライター? うちにマッチがありますよ」
「帰ろうと思っ……」
「早く来て。赤ちゃん見せてあげます」
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