May 5th is

モドル | ススム

  May 5th is  







俺が育った家は薄暗いアパートだ。

枯れ葉と埃に汚れたベランダの洗濯機。緑の模様の押し入れ。今考えると黴だったのかもしれない。畳は湿っぽく、叩くと塵が舞った。バランス釜の狭い風呂は奴隷の棺桶のようだった。

古びた給湯器が怖かった。チチチ……ボンと大きな音を立てる。今日こそ爆発するんじゃないかと毎日怯えて、どんなに寒い日でも水を使った。死を予感させるあの音を聞きたくなくて。

夏でも冬のような家に彼女はいた。

一心不乱に書き物をする日もあれば、一日中キッチンに立って、誰かに話しかけていたこともあった。彼女の視線の先に人影はない。俺も挨拶をさせられた。いただきます、お父さん。おかえりなさい、お父さん。

もちろん、父が死んでいることは知っていた。毎晩布団で彼女が話して聞かせたからだ。俺にはわからない言葉が多かったけれど、質問しても返答はなかった。彼女は自分に向かって喋っていたんだと思う。

彼女くらいしか人間を知らなかった。たまに不思議に思う。幼稚園や保育園にも行かず、テレビのない部屋でどうやって過ごしていたんだろう。

そうだ。猫と遊んでいた。

隣の老婆が猫を飼っていた。きつい顔立ちだったけれど、優しい老人だった。

「汚いガキだね。おいで、部屋に入んな」

老婆はそう言って俺を招いた。老婆の名前は知らないが、猫の名前は覚えている。花だ。太ったブチ猫だった。

老婆の部屋は天国だった。テレビもあったし、お菓子もあった。気まぐれに絵本を買って、読み聞かせてくれたことも。おそらく、あの人も孤独だったんだろう。

彼女に殺されかけた真夜中にも、隣の部屋の扉を叩いた。老婆は彼女を叱りつけ、米を分けてくれた。そうじゃないんだ。彼女に足りなかったものは、食べ物でも着る物でもない。

俺は彼女を恐れながら、泣きくれる彼女に胸を痛めていた。大人になれば救えると思っていた。

あんな死に方をするとは予想外だった。

俺は確信していたから。死ぬ時は給湯器が爆発して、俺と一緒に粉々になるんだろうと。一瞬で何もなくなるんだろうと。

















最悪の気分で目が覚めた。

焼けるように喉はカラカラで、頭蓋骨を叩かれるような頭痛に吐き気がこみ上げる。ぐるぐると回転する感覚は、瞼を開けても、閉じてもかわりなかった。

悪心を堪えて寝返りを打つ。かすむ視界の先には、槙原の背中が見えた。青い部屋の中、テーブルに座って水を飲んでいる。

砂漠の旅人のように、グラスに入った一杯の水を求めた。

「神波さん、起きたんですか」

寝台を這い出た俺を、槙原が振り返る。返答するのが面倒で、黙ってグラスを奪った。勢い良く飲み干そうとして、俺はむせ返る。

「ウォッカですよ、それ」

こいつは化け物だ。

時刻は夜中の三時だった。気安く俺の肩を叩いて、水を持ってきますと槙原は部屋を出る。海辺の部屋にはスティングの歌が流れ続け、ぐるぐると小舟のように視界は回り、時間の概念をなくしていた。

数秒後か、1時間後に、槙原は戻ってきた。

「お水持ってきました。大丈夫ですか?」

例によって答えず、俺はミネラルウォーターを喉に流し込んだ。喉ごしが良いのは一瞬で、胃にたどりついた瞬間に吐き気が暴れ出す。口元を押さえる俺の背を、槙原が丁寧にさすった。

「気持ち悪い? まだ吐きそうですか?」

まだ?

「さっきほとんど出したと思うんだけど。母さんが飲ませたしじみ汁が悪かったかな。嫌がっていたのにすいません」

俺は青ざめた。彼の家族にも醜態を見られたのか?

「寒い……」

床か寝台かわからない場所に俺は倒れ込んだ。悪寒に似た寒気がして、ガタガタと手足が震える。毛布を俺にかけながら、槙原が苦笑した。

「ああ、ちょっと急性入っちゃってますね」

ちょっと、急性入っちゃってますね?

「時間が経てば大丈夫だと思いますけど。お水よりもお湯がいいかな」

眉間に皺を寄せて、俺は首を振った。拍子に激しい頭痛が走って、喘ぐように呼吸する。

「いらない……」

「水分取った方がいいんですよ」

「……入れたら吐く……」

毛布を引き寄せて身を丸めた。無様さを感じないわけじゃなかったけれど、格好つけてる余裕はなかった。部屋の床が波打ち、天井がどろっと溶けていく。ざあざあと煩い波音は、口から入って胃を擦った。手足は冬の朝のように凍えていた。

「さっきはすいませんでした」

冷たい俺の手を包み込んで、槙原が背中をさすった。吐き気がするから触らないで欲しい。

「どうでもいいなんて言っちゃって。貴方はつらい思いをしていたのに」

槙原の謝罪は素直で、虚栄心も嫌味もなかった。礼節を守って謝罪を口にする大人は多いけれど、心からといった風に謝る人間は少ない。彼の人柄に触れながら、俺は適当に頷いた。

「貴方から話を聞いて、本当に反省したんです。僕が無神経でした、すいません」

「……俺から?」

「覚えてないんですか? たくさん話してくれて、僕は嬉しかったですけど」

顰めた目で槙原を見た。普段から馴れ馴れしいこの男は、さらに勝手に親近感を増して微笑みかけている。

絶望的に、俺は瞼を閉じた。最悪だ。何を言ったんだ。

弱味を握らせないために、思考をまとめて反撃しようとしても、努力空しくアルコール漬けの脳に邪魔される。槙原に頭を撫でられて、俺は笑いがこみ上げた。

何だそれは。目上の男にすることか。

馬鹿じゃないのか。

愚鈍な彼は知らない。彼のトラウマになっている生徒の死に、俺が関与していることを。俺が望みを断ち切って、腕時計の持ち主を自殺に追いやったことを。

言ってやったら、どんな顔をするだろう。

おまえの顔に傷があると言ったのは俺なんだよ。

「……何を言った?」

手足を擦りながら、俺は低く唸った。

「貴方が?」

「そうだよ……。君は何を聞き出したの」

「人聞きが悪いな。他愛もない話だ。太っていて着地できない猫や、爆発しそうな給湯器や……」

「目的は満たせた?」

「何がです。貴方も笑ってた」

「……たいした偽善者だよ。他人に同情する振りをして……、君は虚栄心を満たしてるんだ」

身を起こして、槙原を睨んだ。傾いた三半規管が混乱を始める。困惑を装った槙原が、二重に滲んで回転する。

吐き気を堪えて、途切れ途切れに、俺は喋った。

「そういう人間を……知ってるよ。……高額の寄付金を持って、子供たちに同情を向ける。本当は……同情なんてしてないくせに、自分だけが世界の……平和を祈ってる顔をして。君は……あの……厚化粧の婆どもと一緒……」

「あんまり喋ると、えづきますよ」

鈍く目を細めて、槙原は顔を背けた。割れるような頭痛を無視して、彼を振り向かせる。

「聞けよ。……教師になったのも、形見を身につけてるのも、君にはただの……ステータスなんだ。募金して赤い羽根を貰うように……自己満足で……」

「いい加減にしろよ!」

がくん、と顎が揺れた。

俺の襟首を掴んで、槙原が睨み据える。突然の豹変ぶりに、酔いが吹き飛んだ。

「何……」

「ゲロの始末までしてやったのに、その言い草は何なんだよ! 悪ぶるのもたいがいにしろ!」

「……手を離せ」

「あんたが最低の人でなしだってことは知ってるよ! 僕が聞きたいのは、このまま最低の人でなしでいるのかってことだ! 他には何もねえよ!」

「手を離せ……!」

俺は槙原を突き飛ばした。彼がよろめいて、後ろ手をつく。

それだけの反撃では、彼の鋭い眼差しも、鋭い言葉も止めることは出来なかった。

「いい年して突っ張って……。久保谷君がかわいそうじゃないか! 和泉君も、他の子たちだって!」

「……俺がいなくても生きていけるさ!」

「勝手なことを言うなよ! あんたはどうだった!? お母さんをなくした後、まともに生きていけた!?」

「…………」

「出来なかったから、こうなったんだろう!」

ちかちかと目眩がした。

アルコールではなく、激しい怒りで。赤黒く視界が狭まっていく。

「貴方を嫌ったまま、あの子が幸せになれるはず無いじゃないか! お母さんにされたことを、貴方はあの子にしたいの!? 貴方と同じ子供を……」

言い訳をするわけじゃない。ほとんど無意識だった。

床に転がったテキーラの瓶を掴んで、俺は槙原を殴りつけていた。どこに当たったかはわからない。鈍い手応えがした。

「……おまえに何がわかる!? 何がわかるんだ!」

波音が繰り返す。

そして、イングリッシュマン・イン・ニューヨーク。

アルコールが時間の概念を失わせていく。

四角い窓の向こう、海の傍で光が点滅している。あれは給湯器の光だ。

給湯器が爆発するのを待っている。

赤い爆風が一瞬で全てを焼き尽くしてしまう日を。

「貴方が不幸なことだよ……」

ニの腕を押さえながら、槙原が囁いた。

「……エイリアンはそっちだよ。この星には居場所がなくて、侵略するしかないと思ってる。正体がバレたら、NASAで人体実験されるしかないって。……馬鹿じゃないの。貴方は本当に馬鹿だ」

息を詰めて、槙原が口を噤んだ。

俺は目を疑った。月明りの青い部屋、幼げな瞳には涙が滲んでいた。

がこんと瓶を取り落とす。

スローモーションの映像のように、とても悲しげに頬が歪んで、瞼から涙がこぼれおちていった。せせら笑うこともできず、俺は呆気にとられた。

なんて、てらいのない泣き方をするんだろう。

俺には絶対に出来ない。

「……いい年して、泣くことないでしょう……」

「今日はずっとつらかったんだ。神波さんの態度が変わってからずっとだよ……」

おおざっぱに手の甲で涙を拭って、槙原は俺を睨みつけた。苛立ちよりも困惑が込上げて、俺は視線をさまよわせる。

「自己紹介をサボったのはそっちじゃん。いい人の振りをしたのはそっちじゃんか。……僕は本当に神波さんが好きだったんだ。貴方と話がしたかった。古川君だって、他のみんなだって……」

「…………」

「貴方にがっかりしたくないのに、嫌なことばっかり平気で言う。何を言っても、ちっとも耳を貸してくれない。こんなのはひどいよ……」

「……恨み言を言われたって……」

俺はようやく、口を開いた。嘲笑するつもりが、途方に暮れた感じになった。

彼には彼の事情があって、涙を流しているんだろう。アルコールで涙腺が緩んだだけかもしれない。

それなのに、何故か一瞬、彼が俺のために泣いてるような気持ちになった。

都合のいい錯覚だろう。わかっていても。

「……君はさ、結婚詐欺に会ったときに、詐欺師の正体を知って、悲しいですってそれだけ伝えるわけ?」

「神波さんは詐欺師と違うし……」

「詐欺師だよ。詐欺師みたいなもんだよ」

たたみこむように言い聞かせて、俺は槙原にティッシュを取ってやった。自分でも何を言ってるのか、良くわからなくなってきた。

「だから、そうじゃなくてさ。なんか要求すればいいじゃない。謝れとか、殴らせろとか、金を払えとか」

「…………」

「俺だってどうすればいいかわかんないよ……」

額を押さえながら、俺は煙草をくわえた。その台詞は限りなく、俺の本音に近かった。

全てを知られる日を、ずっと恐れていた。

その日が訪れた今、どうすればいいかわからない。誰も俺を刺し殺しにこないし、警察に突き出そうとしない。もっとも、法を破るような真似はしてこなかったんだけど。

彼女が死んでも日々が続いたように、今も日々が続いていく。滅ぼされることもなく。

どんな風に終わらせればいいのか……。ライターを引き寄せようとした瞬間、横から槙原に奪われた。

「何……」

「吐きますよ、絶対」

「吐きたい気分だからいいんだよ」

「僕が困るじゃんね」

槙原はライターに話しかけて、それを窓の外に放り投げた。

怒鳴りつけるのを堪えて、俺は瞼を閉じる。目眩はだいぶ収まって、揺れは少なくなっていた。

「あーあ。ひどい人だな……」

涙を拭ったティッシュを放り投げて、槙原は寝台に移動した。俺が言うのもなんだけど、落ちた肩も、小さな背中も、目元を擦る袖も、切なげでかわいそうだった。

鼻をすすりながら、今度は枕に話しかけている。

「本当にひどいよね、神波さんって。自分のことが好きじゃないくせに、自分のことしか考えてないんだよ」

「だからさ……」

「ああ、また嫌なこと言うよ。助けてくれる? ありがとう」

槙原は枕をかぶって耳を塞いだ。人生最悪の二日酔いだって言うのに、容赦ない絡み方だ。

舌打ちして、俺は予備のライターを探す。オイル切れのライターを見つけて、必死に石を擦っていると、槙原に話しかけられた。枕との会話は終わったみたいだ。

「みんなの方が落ち込んでるから、ずっと我慢してたんだよ。貴方も落ち込んでると思ったし……」

「……俺がどうして」

「嘘がバレたらショックでしょう」

ざまあみろと笑えばいいじゃないか。

俺は槙原を振り返った。どれだけ粗を探しても、彼の思考に慢心や偽善は見つからなかった。

気の毒なことに、彼は本当に俺が好きだったんだ。

そして、俺につらく当たられて、純粋に傷ついている。それだけの人間だということが、ひどく俺を驚かせた。

「……変な子……」

ライターを諦めて、俺は寝台に近づいた。ふて寝したと思った槙原の目は開いていた。

窓の外を見つめている。

遠くを見つめる彼は、誤魔化しようもなく、遠い人間だった。世界の果てからやってきて、明日にはいなくなる人のように。

彼の瞳は子供のように、白目が青みがかっていた。月明かりの部屋の外でもそうだ。俺は絶滅種に接している感覚に陥った。

彼を傷つけたことを申し訳なく感じた。

「……何を見てるの?」

「海で何かが光ってるんです。あれはなんだろう」

「さあ……。灯台か何かじゃない」

「灯台なんかあったかな。神波さんは見た?」

「知らないよ。機嫌は直った?」

じっと俺を見上げて、槙原は身じろぎした。枕を抱えて横向きになる。くしゃくしゃになった服の隙間から見える傷が痛々しかった。

無害な人間のように見えるのに、各所で怒りを買って痛手を受けている。傷だらけのくせに彼はたくましい。

素朴さや無垢さを失うこともなく。

「神波さん、古川君が死んじゃってたんだよ」

今日あったことのように、槙原は報告した。

初夏の夜風を受けながら、時間があの冬に巻き戻る。目を伏せて俺は理解した。抱えきれない生徒の死を、彼は俺に相談したかったんだ。

俺がこうなるまで、彼の相談相手は俺一人だった。俺がそう仕向けたから。

「ごめんなさいって言って、死んじゃった……。貴方もあの子も、どうしてそうなのかな。誰にも話さないで、一人で話を進めてさ」

夜の潮騒が海岸にぶつかって砕けていく。

「……馬鹿な子。本当に馬鹿な人たち。意地や後悔にとりつかれて、それを自分だと思いこんで……」

四角い窓の向こうで、名もない光が点滅している。

「……どうせ悪いことするなら、自分のためにすれば良かったのに……」

「……俺は自分のためにしたよ。後悔はしていない」

「そんなわけないでしょう。貴方は復讐したかったんじゃないよ。普通にお母さんと暮らしたかったんだ」

激痛に似た目眩がした。

「太った猫が着地に失敗するのを見て一緒に笑ったり、給湯器は爆発しないよって笑われたりしたかったんだ。――それが出来なかったのは、貴方のせいじゃないのに」

呼吸が詰まって、唇を喘がせる。

俺は槙原を凝視した。

「あの子もそうだった。新しい夢を持っただけなのに、悪いことみたいに隠して。いつだってそうだった。古……」

病的な発作のように、俺は槙原の腕を掴んだ。

槙原が不思議そうに瞬く。酔っぱらった指で、俺は死人の腕時計を外した。ごとりと床の上に置く。

遠い人間が、手の届く距離で、俺を見上げている。

呪われた口が動いた。

「君が腕時計をするのは自責だ。……身につけることで勇気が貰えるようになった時、もう一度はめた方がいい」

大きな目を見開いて、槙原は感極まったように嗚咽した。望んでいた俺の助言を得て、背中を丸めてすすり泣く。

彼の背を撫でながら、俺は呆然としていた。助言は嘘だ。

友人のように彼に触れるには、古川の形見が目障りだっただけ。

いつものやり方で、忌々しいものを排除しただけだ。

「――続けて」

俺は何をしようとしてるんだろう。

「話を聞いてあげるよ」

何をしようとしてるんだろう。











モドル | ススム

-Powered by HTML DWARF-