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ゴーグルを外して、首筋の汗を拭った。ソーダ味のアイスをくわえながら、スクーターを停めて地図を広げる。
かんかん照りという言葉がぴったりくる、精力的な太陽だった。じりじりと肌が焦げ、食べる前にアイスが溶けていく。
赤い軽自動車が俺の背後を通り過ぎた。昼間から酔っぱらった女の子たちが、窓から顔を出して、俺に手を振ってくれる。運転席の女の子は恥ずかしそうだ。
笑いながら、俺は手を振り返した。携帯が鳴って、アイスを頬張ったまま着信する。
「もひもひ」
「……なんだって?」
怪訝そうな声は茅だった。アイスを口から外して、もう一度挨拶する。
「もしもし。どうした?」
「どこにいるのかなと思って。暑いから大変だろう、今日」
「暑い。死にそう。今もアイス食べてた」
「かわいそうに……」
気の毒そうに茅は言った。彼はいつでも俺の味方だから、お天道様からも庇ってくれる。ずり落ちてきたアイスを舐めて、俺は得意げに付けたした。
「走ってると気持ちいいけどね。今府中だから、あと少しで実家に着くよ」
「ああ。何とか不動尊……」
「高幡不動。土方歳三まんじゅう、お土産にしてあげる」
「君がいると思って津久居さんに連絡したんだ。文句を言ってたよ。寝に来ただけだったって」
「伝えて。ソリティアより魅力的って、今さら気付いても遅いって」
にやりと笑って俺は電話を切った。
青空は鮮やかな色で、真夏ほど目に痛くない。高台から見渡す景色には、何とも言えない解放感がある。気持ちのいい風が吹いて、無意識に頬が綻んだ。
あの日の鉄平のように、踊り出したくなる。
伸ばした両手を、空に掲げて、くるくると回るステップ。
部屋に戻ると、茅と斉木はいなかった。
俺は茅に電話して無事を確かめた。彼はいつも通りだった。先ほどのことは覚えていなかった。
斉木からは短いメールが入っていた。
「親の仇レベルに親密度がアップしました」
色々苦労をかけてしまったらしい。お礼と労いと、これからもよろしくという旨と、ライブを奢る約束をメールした。
仲直りしたはずなのに部屋に戻らない俺に、辻村は再び機嫌を損ねそうになったけれど「照れくさいから」の一言で見逃してくれた。あれだけしつこかったのに、人間って単純なものなのかも。
西先輩(仮)を一度三年の宿舎に行かせて、辻村と別れた後大急ぎで引き取りに言った。彼は廊下の窓を全部開けて、寮生にひんしゅくを買っていた。
鉄平はなんだかハイだった。平熱だったけれど、予防のため風邪薬を飲ませた。瓶ごと渡すと、彼は錠剤を全部出して、机の上で砕こうとした。
俺はさすがに眠かった。昨日は徹夜で、今日も午前中にうたた寝しかしていない。
「ハルたん、これあげる」
パジャマを取りに来た瞠が、お菓子を大量に差し入れてくれた。どこまで気づいてるんだろう。俺はひやりとした。
清史郎は前にも、わけありの女の子を学生寮に泊めたことがある。女子校の生徒会の子だった。あれと似たようなことが起きてるんじゃないかと、なんとなく予想してるのかもしれない。
へらっと眉を下げて瞠は笑った。
「ハルたんは苦労性だから、あれこれ引き受けて、いっぱいいっぱいにならんようにな」
お菓子を抱えて、俺は吹き出した。こちらの台詞だ。
「瞠の方でしょ。部屋を占領してるのに、文句の一つも言わないんだから」
「いやいやいや。俺が苦労して見えるようなもんは、たいてい身から出た錆系ですよ」
「なあに、それ。よくわかんないけど、瞠のことでも苦労させてよ。今夜のお礼はきっとするね」
汗を浮かべて、瞠は背筋を伸ばした。いいよいいよ、早口で彼が言う前に、片目をつむって扉を開ける。
「何がいいか、明日教えて。約束だよ」
部屋に戻ると、鉄平は窓辺で煙草を吸っていた。キャビン。辻村と同じ銘柄の煙草だ。
いつ変えたんだろう。鉄平は確かメンソールを吸っていた。女の子っぽくて抵抗があったけど、試してみるとメンソールの方が吸いやすかった。
「煙草、変えたの?」
「盗んだ。これ不味いな」
軽く文句を付けて、鉄平は自分の煙草を差し出した。ラッキーストライクのメンソール。辻村のよりきついけれど、爽快で口当たりがいい。
煙草の種類はあまりよく知らなかった。喫煙者も周りにそういない。
おじいちゃんはキャスター。辻村はキャビン。神波さんはマイルドセブン。何度かデートをしたお姉さんは、パーラメントのメンソールを吸っていた。お父さんも昔吸っていたけれど、子供が出来て止めたらしい。
辻村のキャビンを灰皿に捨てて、鉄平も自分の煙草を引きだした。吸い口を下にして、とんとんと窓枠に叩きつける。鉄平がよくする仕草だった。ちなみに、賢太郎もよくやる。
「何してるの」
「葉っぱを詰めてる」
「詰めるとおいしくなる?」
「さあ。手癖みたいなもの」
賢太郎もそう答えた。ただの癖かな。
煙草を逆さまにして、とんとんと卓上で叩いてから、口にくわえる。たしかに数ミリ葉っぱが下がっていた。
彼らは毎回やるわけじゃなかった。気が向いたとき、気がついたとき、たまに。
「俺の煙草もこれにしようかな」
「ラッキーストライク、この辺にあまりなかったよ」
「そんなに吸わないし」
「わかる。格好付けで吸ってるだけだろ。肺に入れてないんだな」
そんなことない、俺は否定したかった。上手に嗜んでいる風に見せたかった。
煙草の先に火をつけて、鉄平は優しく笑う。
「そのぐらいの方がいい。ポーズを楽しんで、するっと止めた方が。止められなくなると、もう格好良くはないから」
「今時、煙草が格好いいなんて、誰も思わないよ」
「次世代ブームは煙管だよな」
肩を揺らして俺は笑った。煙管、煙管と、鉄平は何度も口にする。
「煙管吸ってみたい? うちにあるよ」
「本当?」
「うん。おじいちゃんが吸ってた。誰も使ってないから、鉄平にあげるよ。今度実家に帰ったときに……」
言いかけて、俺は止めた。次に帰省するとしたら冬休みだ。正月明けに、鉄平はここにいるんだろうか。
俺の懸念をよそに、鉄平は嬉しそうに笑った。
「春人が吸ってみてくれよ。アリスのイモムシみたいに」
「ヤクザ映画の親分みたいに」
「女郎みたいに」
「……女郎はよけいだよ」
「春人はいい奴だな」
優しい瞳で鉄平が微笑む。胸が暖かくなる彼の笑顔が好きだった。
鉄平は目を伏せて、俺の肩に額を預けた。戸惑いながら、火傷をさせないように、煙草を挟んだ手を上げる。
有害な白い煙が、無数の毒を含んで、二つ絡まっていく。
「おまえに会えて良かったよ」
彼の名前を深く肺に吸い込んで、寂しくて優しい毒に浸る。
ねえ、鉄平。
俺は禁煙するみたいに、貴方を跳ねのけた。
大嫌いにならないと、大好きなものは捨てられなかったから。
有害物質を調べるように、貴方がどれだけ悪人か、頭で唱えて安心したよ。憧れを忘れて、いい思い出を捨てて。常識を味方に付けて、貴方を憎んだ。
馬鹿だよね。
貴方は誰も傷つけまいとしていたのに。
駐車場にベスパを停めて、俺は玄関に駆け込んだ。倒れ込むように尻をついて、靴紐をほどく。
「ただいまー」
ばたばたと足音が聞こえて、嬉しそうな母さんの声がした。
「はる君、おかえり! 暑かったでしょう」
「暑かった、もう汗だくだく」
「お風呂はいる? スイカもあるのよ。お昼はお蕎麦なの。ハル君、帰ってくるって言うから、お父さん張り切っちゃって」
「ああ、手打ちそば?」
靴を脱ぎながら俺は笑った。地元の会でそばを打ってから、父さんにプチブームが来てるとメールで聞いていた。
タオルを渡しながら、母さんが陽気に笑う。
「そうよ、へたくそなの。ちっとも繋がって長くならないんだけど、言うとへそ曲げるしね。そうそう、あれ、用意しておいたわよ。汚れてたけど、お父さんきれいにしてくれたから」
「ありがとう」
「学校からバイクで来たんだって? お尻痛くなかった?」
「お尻痛い」
「馬鹿ねえ、無茶するから。お泊まりさせてもらった人に、ちゃんとお礼したの? お母さん、ご挨拶の電話しておこうか?」
「いいよ、いいよ。大丈夫」
会えなかった時間の分だけ、母さんはいっぺんに喋った。母さんはかわいくておかしかった。タオルで汗を拭きながら、俺は仏間に進む。
「先にお線香してくるね」
「そうね。お母さん、天ぷら揚げて来ちゃうわ。お父さんが場所譲ってくれるといいんだけど」
にこにこと笑って、母さんは台所に向かった。母さんとと父さんの笑い声が台所から響いてくる。
仏間の襖も、縁側の窓も、きれいに開け放たれていた。暑いから風通しを良くしているんだろう。仏壇の前に立って、俺はお線香に火をつけた。すっと手をおろすと、お線香の火は一瞬で消える。ちょっとしたコツだ。
汗だくの体で手を合わせて目を閉じる。ゆっくりと瞼を開けると、かわいい弟の笑顔があった。
頬を緩めて、俺は話しかける。
「ただいま、とも」
夜通し俺たちはお喋りした。
恋愛の話。学校の話。原付の話。エッチな話。笑える友達の話。
眠かったはずなのに、鉄平につられて俺もハイになる。ポテトチップや、ポップコーンを頬張って、熱いコーヒーに酔っぱらう。
清史郎から、その夜最後の連絡が来た。小沢さんに送って貰うとのことだった。
小沢さんって誰?
「亡くなった清史郎のお兄さんの話聞いた? めちゃくちゃ格好いいんだよ。ゲーム中にテレビの調子が悪くなった時、音だけ頼りにゾンビ犬を倒したんだって。画面が真っ暗なのに!」
「一緒に暮らしてた塾の先生がいるんだけど、ピザのネット注文で大ポカやってさ。俺と二人しかいないのに、20枚も頼んでんの。持ち金も足りなくて、ピザ屋と一緒にATMに行ってさ。みんな笑ってたなあ」
「私のことが好きかわからないって言われて。もう、本当ショックだったよ。中学の頃から好きだったのにさ。遠恋だから大事にしてたのが裏目に出て……」
「半分ヒモみたいに暮らしてたよ。一人暮らししてる、そいつの家に転がり込んでさ。ボードに俺との写真貼って、一枚ずつ増える度に嬉しそうにしてさ」
「この前の文化祭で知り合った女の子とも、もう終わりそうなんだけど……。何なの……。何が悪いの……」
「あそこを出た後に訪ねてみたけど、もう住んでなかったよ。悪いことしたな……。今元気なのかな……」
「わがまま言ってくれないって言われても……」
「底辺浪人に結婚したいって言われても……」
「…………」
「…………」
「ホームレスって、どうやって食べてるの?」
「寮生活って、いつオナニーすんの?」
「スノボ行きたい、彼女が欲しい!」
「ネカフェ行きたい、身分証欲しい!」
俺たちは盛り上がって、いつまでも笑っていた。長年の友人のように、言葉を選ばすにお喋りする。
夜が更ける頃には、冷たい風も止んでいた。
眠りについたのはいつ頃だろう。ベッドに入った記憶はない。体を揺すられて目を覚ますと、制服を着た瞠が俺を覗き込んでいた。
朝の光が眩しい。
「ハルたん、ハルたん、起きて。学校遅刻すんよ」
清史郎と鉄平はいなかった。
寒波の夜の騒ぎが嘘のように、暖かい日差しが雪を溶かしている。俺が眠っている間に、清史郎は鉄平をあかずの間に連れ戻していた。
仲間外れにされたような寂しさと、事件が片づいた安堵感があった。
「離れを貸してくれるって言ってたんだけど、おうちの人がだめだって言ってさ。そのかわり、自家発電機を譲ってくれるって言ったんだけど、壊れてて直らなくて。やっと直ったと思ったら、すげー音すんの。あんなの、あかずの間におけねえよな。だから、ガスコンロ貰ってきた」
カチカチと火がつくガスコンロ。鉄平は喜んでいるだろうか。鍋がないから困ってるかもしれない。
清史郎が風邪をひかなくて良かった。清史郎はありがとうと俺に言った。春人にしか頼めないよ、春人がいて良かったって。
肩を竦めて俺は苦笑する。本当に口がうまい奴だ。
部屋には、煙草ケースだけ残っていた。鉄平がしたように、俺もそれをくすねた。
自分の部屋に戻って、煙草に火をつける。見慣れないパッケージを見て、辻村が眉を上げた。
「おまえの煙草、買ったのか」
おまえの煙草、というフレーズに決めた。これを俺の銘柄にしよう。
格好付けて、俺は笑った。
「そう。俺の煙草だよ」
辻村はつまらなそうに、キャビンを引き出しにしまった。
午後三時に目的地に着いた。
実家で引き留められて、だいぶ時間を食ってしまった。お蕎麦はやっぱり短く切れていて、落ち込んだ父さんを励ますのに時間がかかった。母さんの天ぷらは美味しかった。俺はかぼちゃの天ぷらと、たらの芽の天ぷらが好き。ともはさつまいもの天ぷらしか食べれなかった。父さんは海老の天ぷらを尻尾まで食べた。
満腹になった父さんは、あのやり方を俺に教えてくれた。
「……あっついね、鉄平」
古川家と刻まれた墓石を見下ろして、俺は微笑んだ。
霊園の新緑は鮮やかで、目に優しかった。お盆のように蝉の鳴き声が聞こえそうだ。磨かれた墓石は日差しを跳ね返して、きらきらと光っていた。
あの夜の雪よりも、強く煌めいて。
一通り水をかけて、お線香をともした後、俺は墓石の前に荷物を下ろした。
レトロな造りの煙草台と煙管だ。父さんに教わったとおり、煙草の葉を丸めて煙管に詰め込む。煙草台の炭に火を生んで、煙管の先を近づけた。じわじわと火が燃え移り、煙草の葉がくすぶりはじめる。
ちょうどいい頃合いになって、俺は煙管を口にくわえた。
深く吸いこんで、ぷかっと煙を吐き出す。
気取った笑みを浮かべながら、首を傾げて彼に尋ねた。
「煙管の似合う俺と、似合わない俺。――本当はどっちが良かったの?」
日陰からやってきた風が、優しく火照った体を癒す。さわさわと葉が泳いで、鉄平が苦笑したような気がした。きっと目の前にいても、彼は答えなかっただろう。
優柔不断で、他人思いの、優しい人だった。
演技もとても上手だった。最後に会った彼は、悪役を名演してくれた。俺が自分を責めなくていいようにと。
強い人や、冷たい人は、自分の失敗をすぱっと忘れられる。優しい人だからこそ、他人を思い過ぎて、過去から抜け出すことが出来なかった。
会いに行くよと、言ってくれたのに。
「鉄平。約束通り、鉄平にあげるね。貴方の煙草は俺が吸ってるから」
煙管煙草を吸い終えて、俺は墓前に揃えた。両手を合わせて、そっと微笑みかける。
人じゃない気配を背後に感じても、今なら迷わずに、振り向くことが出来る。
手桶や柄杓を片づけて、俺は駐車場に戻った。墓地を歩く俺の前を、黒アゲハが横切っていく。ひらひらと通り過ぎる蝶を目で追いかけて、ふと俺は足を止めた。
俺のベスパの隣に人影がある。見慣れた大型バイクを停めて佇む喫煙者の影だ。
眉を下げて、俺は微笑んだ。
「何やってるの」
地図作りに彼も協力してくれた。場所を記憶して、一人でやってきたんだろうか。重い腰を上げて。
煙草の灰を落として、賢太郎は嘘をついた。
「通りかかった」
声を上げて、俺は笑い転げた。真夏の光を浴びながら、彼に走り寄る。
影を踏んで、力強く腕を引く。
「ほら、行こう。ずっと行きたかったんでしょう」
情けない苦笑を浮かべて、賢太郎が足を踏み出した。
彼を導きながら、俺は真っ青な空を仰ぐ。彼がステップを踏んだ、雪原のように白い雲。
両腕を伸ばした。
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