●図書室のネヴァジスタ/April 1st is●
April 1st is
April 1st is
お土産を買い込んで、俺たちは自転車に跨った。
茅サンを後ろに乗せるつもりだったけれど、自転車は茅サンがこぐと言った。
「君の方が軽いだろ」
「そうだけど、大変だよ。かなり距離あるし……」
「こがずに自転車を使ったことがないんだ。サドルを上げてもいいか?」
「うん、待ってて」
サドルの位置を茅サンにあわせて、俺は後ろに跨った。
俺は非常に緊張した。
誰かのお荷物というのは至極苦手なのに、こんなにわかりやすいお荷物はない。
荷台に跨りながら、茅サンの背中を見つめる。進みだした茅サンは文句も言わず、ぐらつきもしなかった。
視界を塞ぐ背中は引き締まっていて、逞しいとさえ言えた。弱々しい少年の影などどこにもない。俺は妙に切ない気持になった。
「……茅サンの背中大きいね……」
「…………」
気持ち悪そうに振り向かれて、俺は失言を後悔した。
顔から火が出そうになる。死んでしまいたい。
基礎体力が違うのか、自転車はぐんぐんスピードを上げた。長い坂道を下り始める。体の脇を通り過ぎる風が爽快だ。
気分良く髪をなびかせながら、俺は青ざめた。
忘れてた。
ブレーキが利かないことを。
「か、茅サン……」
「どうした」
「本当にごめん、どうしよう、俺が悪いんだけど、あの……」
「簡潔に」
「ブレーキが利かない」
茅サンは右のレバーを握りしめた。にもかかわらず、タイヤはなめらかに加速していく。
射殺すような眼差しで、茅サンは俺を振り返った。
「何故、先に言わないんだ」
おっしゃる通りだった。
「ごめん! マジごめん、忘れてて……!」
「上り坂を探そう、スピードが落ちる!」
「この辺りしばらく下り坂で……!」
「君は馬鹿か!?」
坂道は蛇行しながら、傾斜を増していく。登るのに苦労した斜面は、あっという間に駆け降りた。
ペダルを回さないまま、茅サンはバランスを取るのに精一杯だった。
不安定な二輪の上に、青少年が二人も乗っているのだ。
次の下り坂では、子供たちが道に広がって遊んでいた。
血の気が引いて、俺は叫ぶ。
「茅サン! ベル鳴らして、ベル!」
「ベル!? どれ!?」
「右のハンドルの上! レバーが……」
「叫べ!」
「どいてー……!」
ぼんやりと顔を上げた子供たちは、蜘蛛の巣散らすように去っていった。
突き当たりには、急なカーブが迫る。
一歩間違えれば、ガードレールに激突して、崖下の墓地に落下する。
茅サンは体を倒して、ハンドルはあまり使わずに、重心だけでカーブを曲がった。
アスファルトすれすれに体が倒れて、ぶらさがった鞄の紐が擦り切れる。
「やった……!」
ほっとしたのも束の間、俺の頭と30cm離れた場所を、酒屋のバイクが走っていく。
徐々に車体の角度が戻って、俺はサドルにしがみついた。
「どこまで下り坂は続くんだ!?」
「この山を下りるまで!」
「君はいつもくだらない冗談を言っているんだから、こんな時ぐらい気休めにすぐ終わるとか……」
「何!? 聞こえない!」
「教えてくれてありがとう!」
くねくねとうねりながら、下り坂は続いていく。元々山道だから、見通しもかなり悪い。
突然現れる車にひやっとさせられる。
俺は責任を感じていた。このままじゃ大事故が起きる。
茅サンの耳元に、俺は叫んだ。
「茅サン! 俺、飛び降りるよ!」
「無理だ、怪我をする!」
「俺が降りれば軽くなって、スピードが緩むかもしれない!」
「バランスを崩す! いいから乗っていてくれ!」
「でも……!」
クラクションが耳をつんざき、通り過ぎた車の風圧を頬に感じた。
ハンドルを握りなおして、茅サンが低く囁く。
「見通しのいい車道で倒れよう。その方が人を巻き込まずに済む」
茅サンの言葉に、俺は泣きたくなった。
どうしよう、どうしよう。
俺のせいで茅サンに怪我をさせてしまう。
面倒くさがらなきゃよかった。変な意地を張らなきゃよかった。
全部俺のせいだ。
カラカラカラと自転車は悲鳴を上げ続ける。
俺はぎゅっと茅サンにしがみついた。せめて、茅サンを庇って倒れよう。怪我をさせないようにしよう。
どうか、アスファルトが、俺だけを擦りますように。
「………ッ」
茅サンが舌打ちした。
見通しのいい道は現れないまま、前方に、突然交差点が見えた。
あそこに突っ込んだら、間違いなく車に跳ねられる。
この辺りで倒れ込むしかない。
覚悟を決めたとき、右側の段差の下に畑が広がった。茅サンの肩を掴んで、俺は大声で叫ぶ。
「畑に突っ込もう!」
茅サンは頷いた。
後続車の前を横切って、ハンドルを右に切る。ふわりと、体が無重力になる。
クラクションが響く空を、自転車が舞った。
「眼鏡が割れた……」
泥まみれの茅サンは、欠けたレンズを凝視して嘆いた。
きちんと折り畳んで、胸ポケットに眼鏡をしまう。
傍らの俺を覗き込んで、茅サンは右手を差し出した。
「大丈夫か? 起きあがれる?」
体を起こそうとして、右足首に痛みが走った。捻ってしまったらしい。運動靴は泥だらけで、足首まで真っ黒になっていた。
「自転車で帰るのは無理だな。壊れてしまったし……」
倒れた自転車はカラカラ音を立てていた。ハンドルと前輪がぐしゃっと曲がっている。
あんまりにも無惨な姿だった。
「タクシーを呼ぼう。畑の持ち主があの家の人のようだから、謝ってくるよ。ここで待っていてくれる?」
擦り傷を拭いながら、茅サンは淀みなく告げた。
眉を上げて、肩を竦める。
「そんなに謝らなくていいよ。何言ってるのか、泣いててよくわからないし……」
俺は首を振った。茅サンが鞄を漁って、ウェッティを差し出す。
「そんなに痛むのか? 足首は動く?」
俺は首を振った。面倒くさそうに、茅サンが息を吐く。
「泣かれたら、責め難いじゃないか」
「ごめんなさい……」
茅サンの膝を握って、俺は畑の上に丸くなった。
「俺、いつも、あんたを助けられなくて……。ひどいことばっかりして、ごめんなさい……」
澄み渡った青い空を、白い雲が泳いでいく。
暖かい土の上を、小さなトカゲが歩いていた。
カラカラカラと周り続けた車輪の音が止まる。
茅サンは苦笑した。
「誕生日だから許して上げるよ」
畑の持ち主が、水道と絆創膏を貸してくれた。
今日はたくさんの人に助けられる日だ。茅サンは愛想良く、迎えが来るまでの間、おじさんと話していた。
俺たちが飛び込んだのはキャベツ畑だった。
だめにしてしまった野菜を、おじさんは笑いながらわけてくれた。恐縮する俺たちに、おじさんは言った。
「命の恩人なんだから、好き嫌いしないで食べなさいよ」
その通りだと思った。
俺は知らないうちに選り好みして、知らないうちに恩を忘れてしまったのかもしれない。
俺を生かす優しい奇跡に対して。
(気に病んでないといいけど)
今度は心から思えた。
(お母さんが、俺のことで、何か気に病んでないといいけど)
過去の選択に囚われて、不幸になるのは悲しいことだから。
俺みたいに空回りをしないように。俺みたいにびくびくしないように。
せめて、幸福でいて欲しい。
生んでくれてありがとうと言えない代わりに。
迎えにきたのは、タクシーじゃなかった。見慣れた車を見て、俺はぎゅっと胃が痛くなる。
「ご迷惑をお掛けして、大変申し訳ありませんでした。どうお詫びをしていいやら……」
車から降りた人物は、畑の持ち主に何度も頭を下げた。笑うおじさんに深々とお辞儀をして、俺たちの前にやって来る。
誠二は怖い顔をして、俺の顔をじっと見ていた。
俺は思い出した。誠二に怒られるのが、なにより怖かった日のことを。
ごつん、と誠二は俺の頭を叩いた。
全然痛くない、優しい手だった。誠二は茅サンもごつんと殴った。
俺は心から誠二に申し訳なくなった。
「……ごめんなさい……」
「だから、言ったでしょう。危ないから止めなさいって」
「神波さん。僕は何故、打たれたんです?」
「え? ああ、ええと……」
「ついで……?」
「違うよ。ほら、二人乗りしたから」
茅サンは理不尽そうだった。俺は眉を下げて、誠二に訴える。
「茅サンは悪くないんだよ。俺が自転車で迎えに行ったから……」
「わかってるよ。怪我は? 大丈夫だったの?」
俺は押し黙った。茅サンが俺の足下を覗き込んで言う。
「足を捻ったみたいです。少し腫れていて」
誠二は眉を上げて、俺の前に屈み込んだ。
誠二の頭の上を、薄紅の花びらが舞っていた。遠くで桜が咲いている。
足首に触れながら、誠二は言った。
「あーあー、腫れちゃって。戻ったら湿布貼ってあげるよ。誕生日に怪我するなんて馬鹿な子」
ぺしりと誠二が足の甲を叩く。
びっくりして、俺は目を見開いた。
空を走り抜ける山風が、桜の花びらをつれてくる。
どこかで始まっていた、新しい季節が姿を現していく。
「神波さん、怪我した部分を叩かなくても……」
また泣き出しそうになる俺に、茅サンが困惑気味に言った。立ち上がった誠二が、何も言わずに振り返る。
口端を上げて、誠二は笑った。あやすように、勝ち誇るように。
壊れた自転車を積んで、俺たちは春先の道を帰る。
一番最初に貰った野菜の名前を誠二が教えてくれた。ふきのとうだよ、と彼は言った。
April 1st is 了
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