• 耳障りの良い、低く柔らかい声だった。
  • 『辻村一と申します。……神波誠二さんはいらっしゃいますか』
  • チェロのような声だった。
  • 一瞬の空白の後、俺は返答した。
  • 「いえ。生憎席を外しておりますが、ご用件は」
  • なんでしょうか。続く声は不用意に掠れた。
  • 受話器の向こうで沈黙が返る。
  • 舌打ちをしたくなるほど、心臓は軋みを立てていた。
  • 鼓動の速さは病のように、喉を焦がして胸苦しさを誘う。動揺している自分が悔しい。
  • 挑むように、彼の手の内を待ちながら。
  • 『そうですか……。また、連絡します』
  • 「はい」
  • たやすく諦められれば、腹の底から憎悪が吹き上げた。頷きに、呪詛をこめた。
  • ——その程度の執着で許すと思うなよ。
  • そう思っていたのか。
  • ——なんだ、その程度で終わりか。
  • そう安堵したのか。
  • 俺は後者を取ることにした。
  • 失望し、軽蔑してしまえれば、とても楽だった。いつものさめた水が、低い温度で体の中を流れていく。
  • ゆっくりと低迷していく血の流れは、チェロのような彼の声に、うまく重なった。
  • 異様な興奮よりも。
  • 『……伝言をお願いできますか』
  • 「ええ、どうぞ。よくメモを無くす人だから、届かないかもしれませんけれど」
  • 『お時間がある時に、会えませんかと』
  • 「はい」
  • 『もうひとつ。煉慈かと思った、声が似ていて』
  • 「……私がですか?」
  • 『ええ』
  • 「今のも伝言に?」
  • 『あなたに任せます』
  • 叫び出しそうな自分がいたけれど、そうするには歳を取り過ぎていた。
  • 罵倒するには疲れすぎていたし、彼を憎むことは繋がりを認めてしまうことだから。
  • 生まれてからずっと、彼が他人でいたように。
  • 彼が死ぬまでは、他人でいよう。
  • 「かしこまりました。お電話ありがとうございます、辻村さん」
  • 静かに受話器を置いた。
  • 止まったままの時間は、しばらく動かなかった。