• 花と眞が僕を招待したのは、有名なホテルのラウンジだった。
  • 立派そうな会社員や、品のいい奥さんたちばかりだ。
  • 花は贅沢が好きだけれど、もっと派手でかわいい店が好き。この場所を選んだのは眞だろうか。
  • どうして、わざわざ、こんな所に呼んだんだろう。
  • 二人がかしこまって見えるのも、場所柄のせい?
  • 「コーヒー、800円だって。高いね」
  • 「好きなの飲んでいいよ」
  • 「カルピス」
  • 「カルピスはないんじゃない? キウイの生ジュースがあるよ。それにしたら」
  • 「キウイよりバナナ」
  • 「OK」
  • 僕はバナナジュースを注文した。バナナジュースは1000円もした。スーパーで一房300円で買えるのに、一体何本のバナナを使う気だろう。
  • メニューや値段に頭の中で文句をつけて、これから起きることを考えないようにした。
  • 目に入れるもんか。お揃いの指輪なんて。
  • かしこまった服装なんて。
  • 「咲、あのね」
  • 花に言われたら、おめでとうって言うしかない。
  • 「眞と結婚することにしたんだ」
  • ささやき声で喋るウェイターさんが、バナナジュースを運んできた。
  • 僕はストローを取り出した。コップに差し込んだ。一口飲んだ。
  • 生まれてから一番、美味しいバナナジュースだった。
  • 「それでね、アレやって欲しいの」
  • 「アレって?」
  • 「教会に入る時のエスコート役。パパ死んじゃったじゃん?」
  • ウェディングドレス姿の花の手を取って、ヴァージンロードを進む僕を想像した。
  • 行く先には眞。
  • 眞に花を引渡す役目。
  • 「いいよ」
  • 僕は頷いた。
  • 今までヴァージンロードを花嫁と歩いた、どの父親よりも、新郎を憎む自信がある。
  • だけど、仕方がない。
  • これはお祝いごとだから。
  • 彼女も嬉しそうだから。
  • 「ホント? やった。牧師役は神波君にお願いしたんだ」
  • 「容赦ないね、花」
  • 「結婚式場にいる牧師さんって、バイトの外人さんが多いんだって。せっかくだから、本物がいいねって」
  • 「誠二は了承した?」
  • 「交渉中。やってくれるよ、きっと」
  • 頬をゆるめて、花は微笑んだ。
  • 花はとても幸せそうだった。花嫁になるということを心から待ち望んでいた。
  • 恋敵が花嫁をエスコートして、恋敵が牧師の結婚式。
  • 僕は笑った。僕も誠二も呪いはかけないと思う。
  • パーティの招待状を貰い損ねた魔女じゃない。お腹を空かせた狼でもない。
  • 馬車や御者に変わる、ねずみやかぼちゃになれると思う。
  • 幸福な彼女はとてもきれいだから。
  • 「そう……」
  • 両腕一杯の花束を抱えて、世界で一番彼女を祝えるだろう。
  • 「楽しみだね」
  • 気に入らないのは、眞の余裕だった。
  • もう少し、ほんの少しでも、恐縮すればいいのに。僕も誠二も彼の敵。式がめちゃめちゃになることを、恐れたっていいはずなのに。
  • 僕と視線が合うと、眞は口元の笑みを深めた。
  • テーブルの上に出していた手をひいて、すとんと膝の上に置く。
  • 元から姿勢のいい背を伸ばして、眞は軽く会釈した。
  • 「和泉咲さん」
  • ストローを咥えながら、僕は目を見開いた。
  • 立派なホテルのラウンジ。
  • 1000円もするバナナジュース。
  • すべて、このためなんだと気づいた。
  • 僕を一人前の人間として認めて——僕に挨拶をするために、ここに招いたんだ。
  • 「改めまして、石野眞です。貴方のお姉さんを、と言うべきか、お母さんをと言うべきか、迷ってここに来たのですけれど」
  • 誰もが声をひそめることを、平気な顔をして言う。僕は弱く頬を歪めた。
  • 開いた瞳に、熱がこみあげていった。
  • 「貴方の花を私にください」
  • ぎゅっと口を結んで、花が長い睫毛で瞬いた。
  • 花は涙ぐんでいた。僕は目を見開いたまま、涙がこぼれるのを堪えている。
  • ああ、お別れだ。
  • 本当にお別れなんだ。
  • だけど、こんな嬉しいお別れはない。
  • そうでしょう。
  • だって、眞が初めて、僕に頭を下げている。
  • 僕のために花が涙を流している。
  • 唾を吐いてやってもいいれど、僕は気の利く男だから。
  • 一人前だと認められた男だから。
  • 「はい」
  • 眞の真似をして、僕も深く頭を下げた。
  • テーブルに鼻先を近づけると、バナナの甘い香りがした。とても高価な、特別なバナナジュース。
  • 「花をよろしくお願いします」
  • 僕への尊敬をこめた、楽園の匂いだった。