The Unbirthday Party (with I)

モドル

  The Unbirthday Party (with I)  






ラグの上に円座になって、俺たちは食卓を囲んだ。

俺はキッチンカウンターに近い場所に腰を下ろした。時計周りに、和泉、賢太郎、石野、花、鳥沢唯、寛子の順に並んでいる。

乾杯を待たずに、賢太郎はビアグラスを口に運んだ。酒の席に喫煙出来ない賢太郎は、不自由そうに菜食料理を検分した。

「鳥小屋みたいな夕食だな」

「肉が食えないって言うからさ」

「一品くらいあってもいいだろ。おまえら買ってこいよ」

賢太郎はすみやかに、俺と和泉をパシろうとした。

俺たちは真顔で思った。こいつを拘束した状況で出会って本当に良かったと。

鳥沢唯の差し入れにサラミとビーフジャーキーがあった。ビールを片手に不機嫌に齧りつく賢太郎を、鳥沢唯は真剣に審美している。

愛想のない賢太郎に、年齢と職業と長男かどうかを尋ねてから、鳥沢唯はため息交じりに額を押さえた。

「既婚者同然の男と、元彼の敵と、ジャリしかいないなんて……」

ジャリとは誰のことだろう。

「改めて、本日はありがとうございました。主人と息子共にお世話になって、和泉さんとは誠にご縁が深く……」

寛子は正座を崩さずに、石野と花に向かって丁寧に頭を下げた。石野と花は訳も知らずに、にこにこと微笑んでいる。

「とてもお洒落で雰囲気のいいおうちで……」

「そうか?」

寛子の賛辞に、さすがに眉を寄せた。寛子は飛び上がって、慌てふためく。

「な、なんで? 素敵なお部屋じゃない」

「こんな変態みたいな部屋がいいのか?」

「れ、煉慈君……」

「私は好きだけど。自分の部屋だと不便かもね」

「メイクが濃くなるんだよ。普段は落ち着くけど」

鳥沢唯と花も好意的な意見だ。俺は口を曲げた。女はこういう空間が好きなのか?

石野にビールを注がれながら、賢太郎が姿勢を崩した。

「女がいることに意義のある部屋だよな。初めてこの部屋に来た時は、ゲイじゃないかと本気で疑ったぜ」

「女性のヌード写真があるのに?」

「泊める代わりに脱げと言っただろう」

「ああ、そうだった。貴方の早合点で、危うく殴り倒されるところでした」

微笑ましい逸話を語るように石野は苦笑した。早合点ではなく、賢太郎の対応は正しいと思う。

「賢太郎は脱いだの」

和泉は率直に尋ねた。答えずに、賢太郎は片足を立てる。

「おまけにあのベッドだしな。遠慮して床で寝る気も失せた」

「一緒に寝たの?」

「あれくらいのサイズだと、男二人が並んでも、体が触れ合わないでしょう」

「いいベッドだよな。いくらした?」

「どうして、さっきから質問に答えないの!?」

恐慌した和泉を、壁に飾られたパネルのモデルたちが笑っていた。寝台に寝転ぶ白峰さえもが。

頭がおかしくなった方が、この部屋では気楽に笑っていられるのか。

箸を動かし、口の中に入れる。光と影の曖昧な空間では、咀嚼する口元さえ妖しげで、酒を飲み干す喉まで卑猥だ。

俺は絶対に、絶対に寛子を見ないようにした。花が鳥沢唯に抱きついて、無遠慮に乳房を掴む。柔らかい体同士が絡み合っている。

「何するんですか!」

「おっぱい大きいね。槙原先生喜んだ?」

「槙原先生? 渉君を知ってるの?」

「ちゅうしたことある」

「え?」

どこでもかしこも混乱が生じている。正座を崩さないまま、俺の隣で寛子が緊張した声を発した。

「あの、失礼ですが、お二組は偽装結婚なのでしょうか?」

俺は胡瓜を噴きだした。乳を揉み合う女と、一緒のベッドで寝る男を前にして、寛子までがおかしくなっている。お二組って何だよ。

「馬鹿を言うな。こいつほど女好きがいるものか」

賢太郎は心外そうに眉を顰めた。この部屋に染まったおまえに、心外そうな顔をする資格はない。

「すいません。男性のヌード写真も飾っていらっしゃったので。ほら、例えばあちらの……」

「寛子、寛子、あれは友達なんだ。指をささないでやってくれ」

「あ、そうなの?」

おろおろする寛子はかわいかった。目を合わせてしまった。

「石野さんは変態さんなんですか?」

鳥沢唯は紛れもなく槙原の女だった。変態と言われながら、石野は上品に微笑み返す。

「どうでしょう、自分ではわかりませんね。何故そう思われたんです?」

「すいません。和泉君も辻村君も、変態だって言ってたから」

「嘘は言ってない」

目を細めて、和泉が呟く。和泉はいつの間にか、梅酒を飲んでいた。

俺もアルコールに走ろうかと思ったが自制した。俺は飲むと高確率で記憶を失う。目覚めた朝に、真っ裸の自分が壁のパネルにいたら、俺は間違いなく男泣きするだろう。

誰もが着衣なのに、精神的には乱交パーティと化していた。収拾の付かなくなった場をとりなすように、石野が微笑む。

「私はカメラマンなんです。誤解を生むかもしれませんが、男女の選り好みなく、ここにいる皆さんのヌードに私は興味がありますよ」

妖しい円座は、動揺のしじまに満ちた。

瞼を閉じて、石野はくすりと笑う。

「――誤解されてしまったようですね」

「誤解も何も、ただの口説き文句だろう。簡単に女を脱がせるなら、俺もカメラマンになれば良かった」

煙草を咥えて、賢太郎が席を立った。ベランダに移動するつもりだ。

彼を見上げて、石野が失笑した。

「貴方には無理ですよ」

「どうして」

「わかっているくせに」

賢太郎は無言で石野を睨んだ。

方法を尋ねた時、石野はこう言った。貴方はどうしたら、私の前で脱いでくれますか。

皆目見当もつかない。そんなことはあり得ないと思う。酔っぱらって頭がおかしくならないと無理だ。

煙草が欲しくて、俺は賢太郎の後を追おうとした。石野の背中を通り過ぎようとした時、彼がぽつりと呟いた。

「津久居君が私の部屋に来るのは、今日が最後でしょうね」

話に花を咲かせる女たちに、彼の声は聞こえなかったようだ。俺が足を止め、和泉が顔を上げただけだった。

「なんで? 禁煙にしたから?」

「私の中で花の優先順位が上がってしまったから」

冷たい風が吹きこんで、賢太郎がベランダに消えた。日本酒を飲みながら、石野は静かに目を伏せる。

微笑む横顔は、鳥沢唯の横顔に似ていた。

「私は彼のわがままを聞くのが好きだったので、ヤニも臭いも気にしませんでした。ですが、妻が出来れば事情は変わってきますから」

「花は煙草、気にしないよ」

「煙草のことだけじゃなくてね。彼は面倒くさい人間だから、そういう場所には寄りつけないんです。だから、彼は一人でしょう」

女たちの明るい笑い声が弾けた。

俺と親父に愛された寛子も、和泉と石野に愛された花も、槙原に愛された鳥沢唯も、飴色の光を浴びる月の住人のように美しかった。

悪意などありもしないのに、河の流れのように、想いは押し流されていく。

彷徨う果てに、幕を降ろすしかない劇場の、行き止まりに出てしまうのだ。

「ああいう大人にならないようにしなさい。人恋しさを嫌って、根なし草になるのはつらい。君たちはもっと、楽な生き方をして下さい」

「……賢太郎は脱いだ?」

同情深い声色で、和泉は尋ねた。答えはすでにわかっていただろう。

眉を下げて、石野は笑った。

「いいえ。信頼は築けませんでした。彼は信頼されることは得意ですが、信頼することは不得手なんです」

服を脱ぐことは信頼だ。それは恋することに似ている。

相手が自分を傷つけず、辱めないと信じて、裸の気持ちを晒すのだ。

そうして一度は結びついたものを、俺はどこかで手放してしまったのだ。槙原も、和泉も。

ありふれた町で失った落とし物のように。










いよいよパーティの正体が割れてきた。

出来あがった煮物と蒸し物を用意しながら、寛子が額に汗を浮かべる。

「亡くなった和泉さんの追悼会じゃないんですか?」

「合コンじゃないの?」

目くじらを立てて、鳥沢唯は和泉の襟首を掴んだ。表情を変えずに、和泉は二人に告げる。

「コミコミで」

コミコミって何だよ。

「お一人なんですか。魅力的な方なのに意外ですね」

「4年くらい棒に振ってしまって……」

槙原はひどい言われようだ。

石野はにこやかに賢太郎を片手で示した。

「合コンなら津久居君が秘訣をご存知ですよ」

「秘訣と言うほどのことじゃない」

「何? 教えて」

身を乗り出す鳥沢唯に、賢太郎は眉を上げた。

「喋らないことだ。黙っていれば勝手に、実は優しいだの、実は誠実だの想像して寄って来る。おまえらみたいな女は、都合のいい想像が得意だからな」

賢太郎の暴言に、鳥沢唯は唖然とした。

「……賛成はしかねるけど、貴方が合コンで口を開かないのは正しいわ。貴方の株が下がるどころか、場の空気が悪くなるもの」

「空気を読まないおまえの彼氏と一緒にするなよ」

「女の子が好きなくせに、賢太郎は女の子に失礼だよね」

茶碗蒸しを食べながら、和泉が言った。賢太郎が口を開く前に、石野が失笑する。

「津久居君は女性に刺激しか求めてないんですよ」

「はい、津久居賢太郎消えた」

何かを没収する手振りをして、鳥沢唯は頭を抱えた。賢太郎は不満げに閉口する。

「イケメン揃いって聞いてたのに。他に男子は来ないの?」

「来るよ」

「どんな人?」

「ナイスミドル」

「中年かあ……」

和泉と鳥沢唯の会話に俺は青ざめた。そう言えば叔父貴が来る予定だった。

控えめに携帯を覗いて、寛子が微笑む。

「もうすぐ着くって言ってました。吾朗さんも一人身だから、唯さんと会ったら喜ぶかも」

「人妻が適当なこと言ってんじゃないわよ」

「あの……」

「ああ、ごめん。本音がちょっと」

「いいじゃん、唯。賢太郎かそのおじさんと付き合っちゃえよ」

石野の肩に凭れながら、花が陽気に手を振った。青筋を立てて、鳥沢唯がチューハイを飲み干す。

「残り物の具でサンドイッチを作るみたいに、私の彼氏を決めないで頂けます?」

「俺は残ってない」

「私だって残ってないわよ!」

「槙原にも振られた女が……」

「私が振ったのよ!」

鳥沢唯は賢太郎の襟を閉め上げた。顔を顰めた賢太郎が、間近な彼女の顔に眉を上げる。

「なんだ、美人じゃないか」

「え……」

「女なら文句なかったのにな。歩く結婚願望じゃなく」

「ねえ、お願い。口開かないで。合コンモードになって。私にも夢を抱かせて」

時計を見上げて、俺は落ち着きなく立ち上がった。もうすぐ叔父貴が到着してしまう。

書きかけの原稿は手元にない。ここで叔父貴と鉢合わせるより、帰宅した方がいいんじゃないか。奇跡的に明日の朝までに仕上がるかもしれないし……。

「煉慈、どこに行くの?」

「やっぱり、帰って原稿仕上げようかなって」

「でも、日頃の勘では交渉次第で……」

「黙れ!」

怒鳴りつける俺に、和泉は笑った。いつも通りの反応に、何となく俺はほっとした。

指先を動かして、和泉が俺を手招く。身を屈める俺の腕を掴んで、和泉は耳打ちした。

「吾朗さん来たら、隣の部屋に隠れてなよ。僕が酔い潰してあげる」

名案に思えた。叔父貴はだらだら長時間酒を飲まない。立て続けにグラスを空けて、風呂も入らずに寝てしまう。

悪戯っぽく、和泉は片目を閉じた。

「僕に任せて」

狙ったように、インターホンが鳴った。寛子の携帯が着信音を響かせる。

「もしもし、吾朗さん? 寛子です……」

和泉は俺の手を引いて、ばたばたと隣室まで駆けた。

隣室の照明はまともな色だった。六畳くらいのスペースが書棚やタンスで埋め尽くされている。床には男女の靴が所せましと並んでいた。

和泉はパイプハンガーをかきわけて、部屋に備え付けのクローゼットに俺を案内した。ゴルフバック二つをどかしてスペースを作り、内部に滑り込む。

「ここにいて」

「わかった」

刑事ドラマの相棒のように、俺たちは目で合図した。

クリーニング後の服がぶらさがるクローゼットの中で、俺は体を小さくして座り込んだ。真っ暗闇の中、玄関の扉が開く音がする。

「どうも、こんばんは」

叔父貴の声だ。煙草で枯れた、癖のある低音だからすぐわかる。

普通に話してもドスの聞いた声だ。石野や寛子と挨拶を交わす叔父貴の声を、俺は緊張しながら聞いていた。

「煉慈は?」

尋ねる叔父貴に、和泉が答えた。

「買い出し。先に飲んでてって」

「はあん、裸足でなあ……」

靴ぐらい隠せよ、和泉!

さあっと血の気が引いて、心の中で絶叫した。ガチャリとドアが開く音がする。

「吾朗さん、そこは……」

俺の心拍数を煽るように、どすどすと足音が近づいた。荒々しい音を立てて、クローゼットの扉がスライドする。

眩しい光を背に、叔父貴が立っていた。

眉間には深い皺が刻まれている。

「よう、煉慈」

「…………」

口端を上げて、叔父貴は笑った。ヤクザ顔負けの凄みに俺は震え上がる。

「こんばんは……」

間抜けな挨拶しか出てこなかった。叔父貴は何も言わず、後ろ手にクローゼットの扉を掴む。

「ここで話したいのか?」

「……は?」

「ここで話したくて待ってたんだろ」

「いや、違……っ」

「いいぜ、聞いてやる」

言い訳に聞く耳を持たず、バタンとクローゼットが閉まった。













「おかえり、煉慈」

30分後、俺は解放された。何があったかは言わないが、結論として、締め切りは延ばして貰った。健闘したと思う。

疲弊しきった俺を、和泉がねぎらった。

「良かったね。日頃の勘が当たっ……」

「言うなっつっただろ!」

和泉の口を塞ぐ俺を、怪訝そうに叔父貴が横目見る。そんな叔父貴を見上げて、鳥沢唯が目頭を覆った。

「ナイスミドル嘘じゃん……。その筋の人じゃん……」

「サラリーマンだよ、姉ちゃん」

慣れた様子で叔父貴は誤解を解いた。

叔父貴は空いてる席を探して、賢太郎の横に腰を下ろした。

膝がぶつかった彼らは、建前だけ会釈しあった後、鞘がかち合った浪人同士のように視線を交わす。

「目つきの悪いガキだな。愛想をおふくろの腹に忘れてきたんじゃねえのか?」

「自分の人相を鏡で見てから言えよ、おっさん」

俺と和泉はすみやかに席替えした。叔父貴と賢太郎を遠ざけて、チンピラ同士のもめ事を回避する。

壁のパネルを見上げて、叔父貴は好色ぶって笑った。

「随分と眺めがいいじゃねえか」

「あれ、私」

「えっ」

パネルを指さす花に、叔父貴はうろたえた。寛子がフォローするように、石野を手で示す。

「カメラマンさんとモデルさんのご夫婦なんですよ」

ある意味、間違ってない。

「そりゃ華やかだな。いつも煉慈がお世話になって」

あぐらのまま姿勢を正して、叔父貴は頭を下げた。俺は気恥ずかしさと戸惑いを感じた。

俺のために頭を下げることは、叔父貴は好きじゃない気がしたからだ。

「吾朗さん、煉慈は僕が呼んだ」

叔父貴にビールを注ぎながら、和泉が言った。

「煉慈を怒らないであげて」

あと30分早く言って欲しかった。

叔父貴は眉を下げて笑って、和泉の頭をぐりぐり撫でた。

「そうか。牛乳飲んでるか、ボウズ」

「飲んでる」

「小魚も食えよ」

「食べてる」

「その割に伸びねえなあ」

「遺伝子的欠陥かも」

爆弾のような皮肉を和泉はさりげなく落とした。さすがに硬直する叔父貴に、和泉は構わず続ける。

「誠二の写真見たい?」

叔父貴の曖昧な返答に、和泉は写真を持ってきた。勝手に人の写真を見せるのはどうかと思う。それとも、嫌な話題に転がるのを俺が怖がっているだけか。

「ああ、そうだ。こういう顔だったな……」

叔父貴の声は掠れて、光と影の淵に沈んだ。賢太郎が立ち上がるの察して、今度こそベランダについて行く。

退廃的な部屋を抜け出すと、都会の夜空があった。俺の気配に気づいて、賢太郎が振り返る。

「一本くれよ」

大人がするべき説教をせずに、賢太郎は煙草を差し出した。ビル風が強く、なかなか火が移らない。

賢太郎が手をかざして、小さな火を守った。

「石野が結婚したら寂しいか?」

俺の質問は唐突すぎた。賢太郎は面食らって、よく見る不機嫌な顔をした。

「ガキの発想だな」

発想元は子供じゃない。石野が言っていたことをうまく消化しようとして、俺はやっぱりうまく出来なかった。

「もっと幽霊棟に来いよ」

「ガソリン代を出せよ」

あきれた声で賢太郎は煙を吐き出した。カラカラとベランダの扉が開いて、和泉が顔をのぞかせる。

「蛍族」

「古いな」

賢太郎が苦笑した。和泉は賢太郎にビールを差し入れた。和泉も慰める気配だったが、賢太郎は最後まで気づかなかった。

空き缶に煙草をねじ込んで、部屋に戻っていく。

ベランダは俺と和泉の二人きりになった。

しばらくの間、俺たちは黙っていた。花のパネルを見つめるように、和泉はぱっとしない夜景を眺めていた。

ふと目を逸らせば、和泉はそこから消えてしまいそうだった。

「別に飛び降りたりしない」

和泉の台詞に、俺はぎくっとした。空き缶に灰を落として平静を装う。

「さっき言ったことも、本気じゃない」

遠くでクラクションがした。煙を吐き出して、彼を横目見る。

「本当か?」

「ちょっとは本気かも」

「まあ、俺もだな」

「今日のパーティは変な感じ。何のパーティだったんだろ」

「おまえが呼び寄せたんだ。おまえが名前を付けろよ」

「不思議の国のあれがいい。何でもないパーティ。誰の誕生日でもないやつ」

和泉は小さく笑った。

「僕らが大人になった時、集まれればいいね。何でもない日でも」

今日はありがとう、と和泉は言った。ゆるやかな流れを宵闇は感じた。とめどなく通り過ぎていくもの。

カレンダーをめくるように、悲しみを捨て去ることは出来ない。愛したものを忘れることも。

短くなった煙草を俺は空き缶に捨てた。初めて吸った煙草は、叔父貴のものだった。

彼に憧れて盗んだのだ。

「なんて言って怒られた? 吾朗さんに」

からかう和泉に俺は苦笑した。鼻先をこすると、指から煙草の匂いがした。

「おまえは俺のなりたかったものになったんだから……」

どうしてだろう。

叔父貴の声は苦くなかったのに、俺の声には苦みが混じった。

「ちゃんとしたところを、見せてくれって」

和泉は爪先立って、俺に手を伸ばした。

何も言わずに、和泉は俺を抱きしめた。彼は背が小さいから、窮屈な姿勢だった。気恥ずかしさに笑って、やりきれず眉を寄せた。

和泉も同じ顔をしていた。

叶わぬ夢、届かぬ声、報われない想いたち。

服を脱がすことも出来ずに、真夜中にすれ違っていく。

寛子が俺を好きだったら嬉しいけれど、昔と同じように彼女に恋することは出来ないだろう。

この部屋が禁煙じゃなくなっても、以前と同じ気軽さで賢太郎が訪れることもない。

槙原を愛していても、鳥沢唯は彼の傍にいない。

変わらず俺を支えてくれる人なのに、無邪気に憧れることはもう出来ない。

「ロールケーキだよ、煉慈」

魔法の呪文のように和泉が囁く。

「僕が作ってたもの。先生のお土産みたいなロールケーキ。作り方を知らないから、生クリームから泡立てた」

肩を竦めて俺は笑った。泣けてくるような笑い話だった。

「馬鹿だなあ。俺だって生地の作り方知らないぜ」

「ふふ……」

「なんでロールケーキなんか」

「お祝いしなきゃと思って」

「そうか……。そうだな」

和泉の肩を叩いて、俺は頷いた。

「まあいいさ。何とかやってみるよ」
















おわり



モドル

-Powered by HTML DWARF-